概要
『クラブゼロ』は、2023年に製作された国際共同制作映画。オーストリア、イギリス、ドイツ、フランス、デンマーク、カタールの6か国が参加している。監督はジェシカ・ハウスナーで、主演にはミア・ワシコウスカが起用されている。この作品は、第76回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品され、多くの注目を集めた。映画は、名門校に赴任した栄養学教師が生徒たちに「意識的な食事」という健康法を教えることから始まる。この健康法は少食を推奨し、生徒たちはその教えに感化されていくが、次第に食事を摂らなくなることで多幸感を覚え、行動がエスカレートしてしまう。ノヴァクの教えによって生徒たちは「クラブゼロ」と呼ばれる謎のグループに引き込まれ、事態は深刻化する。ハウスナー監督は主演のワシコウスカと共にノヴァクのキャラクターを緻密に作り上げるため、多くのリサーチを行った。特にカルト教団の元信者への取材を通じて指導者像を掘り下げていったことが特徴的だ。この映画は現代社会における信念やカルト的思想への傾倒といったテーマを扱い、観客に強いメッセージを伝える作品として評価されている。
あらすじ
名門校に赴任した栄養学教師ノヴァクは、「意識的な食事」という新しい健康法を生徒たちに教え始める。この方法は、少食が健康的で社会の束縛から自分を解放できるという考えに基づいている。無垢な生徒たちは、ノヴァクの教えにすぐに興味を示し、実践を開始する。彼らは「食べないこと」に多幸感や高揚感を覚え、その行動は徐々にエスカレートしていく。生徒たちは、この新しい食事法にのめり込んでいき、「信じられないくらい気分が良い」「革命的な瞬間の一部になっている」と嬉々として語るようになる。しかし、彼らの表情にはどこか覇気がない様子も見られる。両親たちが子供たちの異変に気づき始めた頃には、すでに手遅れの状態となっていた。生徒たちは、ノヴァクとともに「クラブゼロ」と呼ばれる謎のクラブに参加することになり、事態はさらに深刻化していく。
絶食信仰と神秘体験
この映画を一言で言うと、カルト宗教へのめり込んでいく様子が描かれている映画である。栄養学の教師であるノヴァク先生は生徒たちに健康的な食事法だと言い聞かせ、「意識的な食事(consious eating)」を勧める。「意識的な食事」とは「少食は健康的であり、社会の束縛から自分を解放する事ができる」食事法だという。初めは食材を少しずつ味わって食べるという方法だったが、それは次第にエスカレートしていき、最終的には全く食事を摂らないというところまで行き着く。最初はハードルを低く設定し、そのハードルを超えたら次は少し高く設定する。そしてそのハードルも超えることができたら、また少し上げる。そのようなやり方によって、徐々にハードルを上げていくようなやり方だ。そして最終的には何も食べないという結論にまで帰着させる。
私はなぜ絶食とカルトが結びつくのだろうかと考えた。そして思いついたのは、絶食をすることによって起こる身体感覚の変化が、実質的には超自然的な神秘体験を得るための修行になるからではないだろうかという考えだ。私自身、食べ過ぎた翌日にプチ断食的な行いをすることがたまにある。その時の身体の感覚としては、最初はもちろん空腹に苛まれる。しかしながらそれを通り越してしまえばすっきりと晴れ渡ったような思考になるのだ。何も食べないことによって、普通に日常生活を送っている上では感じる事がない身体の感覚を得る事ができるのだ。これは簡易的神秘体験である。その感覚を神秘体験と認知することで、それを引き起こす絶食行為が神格化されうる。これが映画内で生徒たちが絶食を推奨するカルト的なクラブにハマる理由なのではなかろうか。飢餓状態に追い込まれた身体の変化が崇高な意味を持ち、果てには天啓になる。食べない物は救われるのだ。恐ろしくも興味深い人間心理だ。
「永遠に生きる」とは何か?
クラブゼロの理念では、何も食べずにこの世を去った場合には「永遠に生きる」ことになるという。一方で食べ物を食べ続けて生きる場合、「滅びる」ことになるという。この理念は劇中で詳しく説明されることはなく理解し難い部分ではあるが、できる限り考察したい。
まずは食べ物を摂り続ける人間が「滅びる」理由について考察する。これは比較的容易に理解できそうだ。食料をはじめとして、人間は大量生産・大量消費の社会で生きている。これは持続可能な社会の在り方ではない事は確かだろう。人間は等比級数的に増えるが、食料生産量は等差級数的にしか増えないともいう。いつまでも枯渇しない資源などなく、必ず限界が来る。この論は現実の社会でも広く理解されている思想であり、この点に警鐘を鳴らすことに関しては賛成できる。
次に「永遠に生きる」の意味を考えるために、「永遠を生きるため」にはなぜ食べ物を摂取しない必要があるのかについて考察する。
はじめに、食べ物を摂取するとはどういうことかについて考えてみる。食べ物を摂取するということは、他の動物や植物などの自分以外の生命を自分の身体に取り込むということだ。我々人間は食物を摂取することで、他の種の生命と共に生態系の中に組み込まれて存在できている。一方で食べ物を摂取しないことは生態系からの離脱であり、結果として自分と自分以外の生命は明確に区別される。それは自分と他の生命との間で築かれている繋がりの断絶を引き起こし、生命が食物連鎖によって回している循環の輪からの脱出を意味する。まとめると、食べ物を摂取するという行為は、生態系に属する多様な生命との繋がりを築く営みである。そして生命を持続させ続けていく以上、その繋がりは断つことができないはずだ。
ではなぜ”食べ物を摂取しない”ことで多様な生命との繋がりを断たなければいけないのか。これを考えるために、もしも自分が永遠を生きようと望んでいたと仮定する。すると自分のその信念を貫くためには、他者の干渉を断つ必要がある。他者からの邪魔が入ると目的を果たすための信念を遂行できないからだ。他の人間からの言葉による干渉は、精神の持ち様によって、干渉が無いものかのように扱う事が可能だろう。しかし自分が摂取している生命についてはどうだろうか。自分が摂取している生命、つまりは食物だ。食物は食事という行為を通して自分の肉体に干渉してくる。精神が干渉されていない状態であったとしても、肉体は干渉されていると言えるのだ。食事から得る生命が永遠を生きようとは望んでいないだろう。そうすると、自分の一部に永遠を生きようとしていない要素が取り込まれてしまうことになる。では取り込まなければいいという考えに至る事ができる。こうして完全に食物を摂取しないという結論に帰着させることができる。
最後に「永遠に生きる」の意味についてだ。完全に他者との精神面・肉体面での関わり・繋がりを断つとすると、生命活動に必要なエネルギーは全てオートファジーで賄われることになる。オートファジーとは、細胞が自らの不要な成分を分解し、再利用するプロセスだ。具体的には、老化したタンパク質や異常な細胞小器官を取り込み、リサイクルすることで細胞の健康を保つ。これにより、エネルギーの供給や新しい細胞成分の合成が促進される。オートファジーは、栄養不足やストレスに応じて活性化され、細胞の生存や適応に寄与する。近年の研究では、オートファジーが老化や病気の予防に関与していることもわかってきているが、「クラブゼロ」ではそれが不老不死になる秘訣のように語られている。健康維持や寿命延長において重要なメカニズムとされている命を取り込まないことで、自己完結する存在になり、その状態で命を断つ。そうすると、自己完結した状態が固定されて不変になる。それが「永遠に生きる」という言葉が含意するものなのではないだろうか。
最後の晩餐
終盤、ノヴァク先生を信奉して絶食を行う生徒5人のうちの4人がクラブゼロに正式加入を許される。(1人はスキー旅行に行っていたため。)そしてノヴァク先生を含む5人はクリスマスのが明けた朝、置き手紙を残して忽然と姿を消す。失踪する前夜、4人の生徒たちは食物を口にしていた。それはちょうどクリスマスの夜だ。これは実質的な最後の晩餐だろう。永遠へと旅立つ直前にのみ、食事が許されたと思われる。そして最後に残った少女ヘレンが、絶食を布教をする存在になる事が予想できる。ラストシーンは最後の晩餐のような構図で幕を閉じるが、その中で彼女はキリストと同じく真ん中に座しているということからもそう推測するのが妥当だろう。彼女は、絶食行為を真に理解するためには「信念が大切」だと言っていた。その信念は容易に理解できるものではなく、ノヴァク先生との交流を通してのみ得られるものだろう。ノヴァク先生及び生徒たちが姿を消した今、その信念を得る事は不可能のようにも思える。しかしその信念を唯一理解してるヘレンが残されている。既に一連の事件に終止符が打たれたように思えても、実際には信念が継承されているのだ。受け継ぐものが一人でもいる限り、クラブゼロは不滅だろう。
考察まとめ
『クラブゼロ』の考察まとめ
- 飢餓状態が神秘体験と結びつくことで、強力な信仰が生まれる。
- 「食べる者は滅びる」という教えは、現代社会の資源浪費に対する痛烈な批判である。
- 「食べる」行為は、栄養素の摂取によって外界と繋がる手段である。
- 「食べないことで永遠に生きられる」という教えの理由は、食べないことによって外界の干渉を受けないために自己完結した存在になれるからである。
- キリスト教における「最後の晩餐」のオマージュである。
- 残された生徒によって、クラブゼロの信念は受け継がれていく。
以上。