『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024)は、『ジョーカー』(2019)の続編。前作に引き続き、監督はトッド・フィリップス、 アーサー・フレック/ジョーカー役はホアキン・フェニックス。謎の女性・リー役にレディー・ガガを迎え、前作から2年後の物語を描く。
あらすじ
ジョーカーが起こした衝撃の事件から2年。ジョーカーであるアーサー・フレックは裁判の過程で精神鑑定を受けるため、アーカム・アサイラム(精神病院兼刑務所)に収容される。そして音楽療法のプログラムに参加することとなる。彼はそこで謎の女性・リー(レディー・ガガ)と出会う。アーサーは徐々に彼女の自分に対する一途な想いに惹かれていく。
謎の女性・リーとのロマンス
リーはジョーカーに心酔していた。ジョーカーの復活を望む彼女は刑務所に火を放ち、アーサーと共に脱獄をしよう試みる。二人が脱獄をするシーンはミュージカル調に描かれ、刑務官に追われる二人の姿は逃亡の希望に溢れて輝いて見える。結局のところ逃亡劇は失敗し、二人は捕まってしまう。懲罰房にぶち込まれるアーサーだが、彼はその間、発作の笑いが止まらなくなる。この笑いは単なる発作ではなく、アーサーが心から楽しんで笑っているようにしか見えない。アーサーはこの件を通して、リーに一段と心が惹かれたのだろう。その後も彼女との交流を通してアーサーはリーに対する愛情を深めていく。TVを通してアーサーがリーに愛を伝える場面は不覚にも感動を覚えた。アーサーの歌声に乗せられた真っ直ぐな愛の感情が、TV画面を飛び出して届いているかのような場面だった。
乖離するジョーカー像
アーサーは、リーと二人で大きなステージで歌舞する妄想を度々膨らませる。彼は多くの観客とTVカメラが設置されたステージの上で、愛する女性と歌い踊る。これはアーサーの思い描くジョーカーとしての理想なのだろう。
だがアーサーの思い描くジョーカー像は、ジョーカーを信奉する人々が抱くジョーカー像と乖離しているように感じる。アーサーのジョーカー像は、人々を楽しませるエンターテイナーだ。煌びやかなステージの上で華麗に歌い踊り、小粋なジョークで観客を笑わせる。しかしジョーカーの信奉者が思い描くジョーカー像は、貧困層を虐げる資本家たちに天誅を下す革命の扇動者だ。過激な行動によって社会的弱者に反旗を翻す機会を与え、既存の社会秩序を崩壊させる。この二つが相容れないキャラクター像であることは一目瞭然だ。
そしてリーも信奉者の一人だった。リーはアーサーに扇動者、革命家としてのジョーカーであることを期待していた。だがアーサーは自分が思うジョーカーではないことを確信し、最後には彼に別れを告げる。彼の言動に期待していた我々観客と同じように。
アーサーの優しさ
弁護士はアーサーは二重人格であると主張するが、アーサーの中にジョーカーという人格が存在しないことは早々に観客は理解できるだろう。アーサーはジョーカーを演じているだけだ。アーサーが無理をしてジョーカーを演じていると確信できるシーンは、法廷にアーサーの元同僚ゲイリーが登場するシーンだ。小人症で周囲から馬鹿にされていたゲイリーはアーサーの優しさについて語る。「自分を笑わなかったのはアーサー、君だけだ」と。
アーサーの優しさは1作目からでも読み取れる。バスの中で子供を笑わせようとする様子や、認知症の母親の世話をする様子が描かれているからだ。また、彼の人を笑わせて楽しませたいという欲求もアーサーの純真無垢な性格を表しているといえるだろう。彼の中にジョーカーという人格は存在せず、彼の本質も極悪非道のジョーカーではないのだ。
哀れなアーサーの末路
見終わった後、本作でアーサーは何をしていただろうかと考えた。記憶に残っていた言動は妄想の中のステージでリーと歌い踊っていたということだ。実はアーサーが自分から下した決断はほとんどなく、ほぼ何も行動を起こしていない。(唯一自分から下した決断は、弁護士を解雇したことぐらいだろうか。)リーが刑務所に火を着けても彼女に導かれるまで脱獄しようとはしなかったし、裁判所が爆破されてもジョーカーのシンパに手を引かれるまでは逃亡しようとも考えていなかった。彼は陰鬱な刑務所から抜け出そうとすることを考えず、ただ妄想に浸っていた。彼は彼の起こした事件によって作られたジョーカー像で満足し、それ以上を求めていなかったのだ。ただ繰り返すだけの退屈な日々に甘んじて準じている彼の姿は、大衆の求めるジョーカーではない。彼は自分がジョーカーではないことを法廷で認める。そしてリーに愛想を尽かされ、元の刑務所に戻る。そしてラストで、真のジョーカーが現れる。
アーサーは暗い孤独な独房でジョーカーである自分をずっと夢見ていた。しかしながら彼にはジョーカーとして生きていく能力も覚悟も足りなかった。ほんの偶然で過激な事件を起こした事をきっかけに彼の人生は大きく変わってしまった。それがアーサーにとって良かったかどうかを推し量る術はない。特筆する才能がないにも関わらず、世間に持ち上げられてしまった弱者男性の哀れな末路がそこにはあった。
総括
本作は誰でもジョーカーになりうることを示唆している。しかし、なったとしてもそれは一瞬限りで長続きすることはない。ジョーカーになった人間は、一見するとカリスマ性が備わっているように見えるが、その実、無理に笑顔を作って道化を演じる平凡な人間なのだ。その笑顔が剥がされた時、その人間はジョーカーではなくなる。そうしてジョーカーが息絶えたとしても、新たなジョーカーは必ず現れる。人々がジョーカーを必要とする限り。
以上。