『動物界』は、近未来のフランスを舞台にしたSFスリラー映画。2023年、フランスのアカデミー賞と呼ばれるセザール賞で12部門ノミネートし、同国で観客動員116万人を記録する大ヒットとなった。
監督・脚本はトマ・カイエ。トマ・カイエは、2014年の長編デビュー作『Les Combattants』以来、社会的なテーマを独創的な視点で描く注目の若手フランス映画監督である。フランソワ役はロマン・デュリス。デュリスは『真夜中のピアニスト』や『彼は秘密の女ともだち』などの作品で知られ、セザール賞主演男優賞に5度ノミネートされた実力派俳優である。エミール役はポール・キルシェ。キルシェは『Winter boy』でセザール賞有望若手男優賞候補になった新星俳優である。ジュリア役はアデル・エグザルコプロス。エグザルコプロスは『アデル、ブルーは熱い色』や『ファイブ・デビルズ』などの作品で知られている。
あらすじ
近未来のフランスでは、原因不明の突然変異により、人間が徐々に動物に変化していく奇病が蔓延していた。これらの変異した人々は「新生物」と呼ばれ、凶暴性を持つために施設で隔離されている。そして主人公・フランソワの妻・ラナもその奇病に冒されていた。ラナは別の施設に移送されることとなるが、その道中に起こった事故によってラナをはじめとする「新生物」たちが社会に解放されてしまうという事件が起こる。フランソワは16歳の息子エミールと共に妻の行方を追うが、一方でエミール自身の体にも奇妙な変化が現れ始める。
生命の美しい姿とは
人間であるはずの身体が変化し、次第に動物になってゆく。自らの意に反して動物化していく身体は、通常の観点から考えれば不気味で怖いはずである。しかし不思議なのである。その変化していく姿はどこか荘厳であり高尚に見えるのだ。そして彼らの出立ちは美しいとも思ってしまう。
本作はルッキズムという言葉が多用されている昨今に重大な問題提起をしている。ルッキズムは人間同士を比べる際にしか使わない。自分と種の違う動物と自分自身の容姿を比べて落ち込むことはないだろう。自分と動物の容姿を比べない理由は、自分とその動物が自身と全く異なる存在だと認識しているからだ。しかし比較する枠組みを広げてみると、共通点は自ずと見つかる。まず前提として、生命の分類学的階級について解説しなければらない。分類学的階級とは、生物を体系的に分類するための枠組みである。詳細に分類するとさらに多く分けることができるが、主要な階級は以下の7つだ。
- 界 (Kingdom)
- 門 (Phylum)
- 綱 (Class)
- 目 (Order)
- 科 (Family)
- 属 (Genus)
- 種 (Species)
これらの階級は生物の共通の特徴や進化的関係に基づいて、より広範な分類から具体的な分類へと段階的に細分化されている。1つ目の階級、つまり一番広い分類は「界」だが、人間をはじめとする動物は「動物界」に属する。これは本作のタイトルであり、考察する上で重要な示唆を与えてくれる。ヒトの分類学的階級は以下の通りだ。
- 界 (Kingdom): 動物界
- 門 (Phylum): 脊索動物門
- 綱 (Class): 哺乳綱
- 目 (Order): サル目(霊長目)
- 科 (Family): ヒト科
- 属 (Genus): ヒト属(ホモ属)
- 種 (Species): ヒト(ホモ・サピエンス)
まずは一番狭い分類の「種」から見ていく。まずヒト種及びホモ属に属するのは現生人類のみである。(ホモ属には絶滅したネアンデルタール人も含まれている。)ヒト科に属するとなると、チンパンジーやゴリラが含まれ、霊長目にはキツネザルやリスザルも含まれる。そして哺乳網となると、ネズミ、ウサギ、イヌ、ネコ、ウマ、ゾウ、コウモリ、クジラなどが含まれるようになる。さらに脊索動物門となると、両生類や爬虫類、魚類や鳥類の動物までも含まれる。最後は動物界だが、これは無脊椎動物も包含する。だいぶ大きく話を広げてしまったが、つまり動物は動物界に属するという点では人間と共通する存在である。分類学的階級の例を見ればわかるように、どの視点から見るか、どこに境界線を引くかによって、共通しているか否かというジャッジは容易に変化するのだ。ルッキズムは一番狭いヒト種の中で行われていることであり、一番広い動物界で比べてしまえば、もはや容姿で比較することなど取るに足らない瑣末な事柄になってしまう。もし現実世界がこの映画の中と同じように動物化していく社会になってしまったら、現在社会が規定している美の規範など簡単に崩れ去ってしまうのではないだろうか。外見の美しさはヒト種の社会によって定義されているものであり、真の美しさは動物界の自然の中に在るのかもしれない。
動物化社会の展望
動物になった異形の者たちが街を闊歩する様子は、漫画『僕のヒーローアカデミア』の個性社会を彷彿とさせた。動物化して行く人々に対応しきれない社会の様子は『ヒロアカ』の個性社会の始まりと似ているのではないだろうか。そして私は発現する動物の種類によって起きる格差を憂いてしまった。どんな動物に変化するかによって、その人物がその後の人生で他者から受ける扱いが変わってしまうだろうと考えたからだ。まず主人公のエミールだが、彼はオオカミだ。劇中では聴覚と嗅覚に優れる描写がされており、動きからは敏捷さや持久力も感じられる。彼はおそらくかなり良い方だ。なぜならオオカミはヒトと同じ哺乳類であり、人間に嫌われている印象はない。そのためあまり差別的な扱いを受けることはなさそうだからだ。フィクスは鳥人間(具体的な動物名は明示されていない)だが、鳥は元々人間に嫌われるような動物ではない。そのため悪くない動物化だろう。しかしながら人間に毛嫌いされている動物になってしまった人間がいることも確かだ。本作にはタコやカマキリになってしまった人間も登場する。彼らを嫌う人間は多くいそうだ。そして実際、哺乳類を始めとした脊椎動物よりも不気味でグロテスクに見えてしまう。もし自分がミミズやゴキブリのような見た目になってしまったならどう立ち回るべきなのだろうか。人間に忌み嫌われている動物は、下手に目立って行動をとるとすぐに排除されてしまうという危険がある。他の動物化した人間以上に周囲から身を隠して生きるほかないだろう。これは親ガチャならぬ動物ガチャだ。自分に発現する動物が美しい姿であることを願うしかない。
劇中では動物化に伴って食の指向が変化しており、鳥人間のフィクスは生魚を喜んで食べていた。このことから、動物化した人間と人間の間にも食物連鎖が生まれてしまうのではないかと想像を膨らませた。つまり食物連鎖が生まれるということは、動物化した人間同士で殺し合いが起きるということだ。動物化した人間は、発現した動物が食糧とする動物を求めるようになり、動物化した人間を襲って捕食するようになるのではないだろうか。例えばシマウマの形質を発現させた人間は、トラの形質を発現させた人間によって捕食されるようなことだ。
動物化の拡大によって、現生人類だけで構築してきた既存の社会体系が崩壊する恐れがある。社会秩序を維持するためには、現人類だけでなく全ての動物が快適に生きるための社会を再構築する必要が出てくる。狭いヒト種の社会体系でも諍いは絶えないのに、それと比べ物にならないくらい広い動物界の社会体系を構築できるとは思えないが…。
変化する肉体
動物に変わるのは身体的な特徴だけではない。精神も動物的になり、人間性は徐々に失われていく。 物語が進むにつれてエミールは自制心をなくし、衝動的な行動が多くなっていく。少しずつ精神が変わっていく様子を見事に描写した自然な演技には感心する。エミール役のポールは、役作りのための参考としてボディ・ホラーの名作であるデヴィット・クローネンバーグの『ザ・フライ』(86)を観るように勧められたという。ボディ・ホラーとは、人体の変容や侵害を通じて恐怖を喚起するホラーのサブジャンルである。本作もボディ・ホラーの側面があると言えるが、私はホラーがこの映画の核心ではないと思う。自己の肉体と精神が、望まないにも関わらず変化していくことは紛れもない恐怖だ。しかし変化の先にある状態を認められるのだとしたら、恐怖は希望にも転化しうるのではないだろうか。ヒトを超越した先には、ヒトが持ちえない美しさがあるかもしれない。最初は自分の身体が動物化していく現実にただ絶望していたエミール。しかしフィクスが大空を自由に羽ばたく姿を見届けた彼はそこに美しさを見出した。その出来事がエミールの胸に希望を抱かせ、はっきりと動物化を許容するきっかけになったのではないだろうか。
総括
『動物界』は差別をはじめとする社会問題、父と息子の絆、青春の葛藤を描いた良作だ。動物化して差別が横行する社会は分断された現実社会のメタファーであり、新しい価値観とどう向き合っていくべきか、人間であるとはどういうことかという疑問を我々に呈する。それと同時に描かれる良質な人間ドラマにも思わず心を動かされる。生命の価値とは何か、美しさとは何かをこの映画を観て真剣に考えて欲しい。
以上。