概要
『友だちのうちはどこ?( 原題:خانه دوست کجاست ؟)』は、1987年にイランで公開されたアッバス・キアロスタミ監督の長編4作目であり、彼の名を国内外に知らしめた作品。イラン北部の小さな村を舞台に、素人の子役を起用して撮影された1。キアロスタミ監督は、この作品を含む多くの「子ども映画」を手がけたが、これは1979年のイラン革命以降、映画界での検閲や文化的制約が厳しくなったことも背景にあるという1。子どもを主人公にすることで、政治的内容を避け、検閲に引っかかりにくくする狙いがあったとされている。そして本作には素人の子役特有の非常に自然なリアリティがある。子供の視点から大人社会の複雑さを描写し、迂回と探索のモチーフを通じて、社会の象徴的な側面を表現している。
この映画はキアロスタミ監督の国際的な評価を高め、イラン映画の水準の高さを世界に示した作品として知られている。1987年のファジル映画祭で監督賞と審査員特別賞を受賞し、1989年のロカルノ国際映画祭で銅豹賞を受賞している。
あらすじ
主人公のアハマッドは、誤って友人モハマッドの宿題ノートを自宅に持ち帰ってしまう。モハマッドが宿題を提出できないと退学の危機に瀕するため、アハマッドはモハマッドにノートを届けようとする。しかし、彼の家をなかなか探し出すことが出来ず、東奔西走する。
心のドアを開ける
この映画はドアがキーになっている。最初は教室のドアが映されるカットから始まる。主人公が友達の家を見つけた時もドアが映される。鉄のドアを売りつけようとする男と、それに対して木のドアで十分だと言う老人。終盤、強風で家のドアが開いたのは木のドアだったからで、鉄のドアだったら開かなかっただろう。開いたドアは他者に対する心のメタファーに思える。
鉄のドアは頑丈で機密性にも優れており、防犯にも充分である。しかし鉄のドアは、人間が誰であっても一切受けつけずにピシャリと閉め出してしまうような威圧感がある。一方で木のドアは脆くて壊れやすく、簡単に破ることができてしまう。しかし鉄のドアと違って軽くて開けやすく、誰でもノックして訪ねることができるような気軽さがある。
薄暗い夜道や野良犬の鳴き声は何かが起こりそうな不安を感じさせる。そんな中で友人の家を知っているお爺さんが一緒にいることは心強く思えた。お爺さんは劇中に登場する大人の中でも唯一主人公の話を正面から聞いてくれている。主人公のお母さんや村の老人たち、ドアを売る男などは、主人公の話す内容に全く耳を傾けていない。それは主人公が子供だからであり、子供は大人の言うことを守らなければいけない存在だからと考えているからだろう。つまり大人と子供を対等に扱ってはおらず、正面から向き合うことを拒否している。これは心を閉ざした状態とも言える。一方でお爺さんは主人公の話を親身に聞いてくれる。そしてお爺さんは主人公の友人の家を教えてくれる。つまりお爺さんは主人公に正面から向き合い、心を開いていると言える。不安感が漂う劇中だからこそ、お爺さんの優しさが際立って見える。
強風で開く主人公の家のドアのシーンも一見恐ろしく見えるが、あれは主人公の心が開いたことのメタファーなのだろう。恐らくお爺さんとの対話の中で、主人公は自分を無視する大人ばかりではないことに気がついた。だから友人の分の宿題を代わりに終わらせようと考えることができた。友人のためにノートを届けようとする行動自体からわかるように、主人公には元から他者を思う心はあった。しかし村々を巡って探したという小さな冒険が主人公の精神をさらに成長させたのだろう。ノートに挟まった押し花が映される最後のカットには心が温かくなった。
終わりに
個人のプライバシーが重視され、利己的な個人主義になりつつ社会では、人々は自然と心を閉ざしてしまい、見ず知らずの他者とコミュニケーションをとることも億劫になってしまう。それよりも多少プライバシーが保護されずとも、人々がコミュニケーションを取りやすい環境の方が健全な社会のではないか。自らの内側をさらけ出すことによって、自分ひとりだけでなく、多くの人が利益を享受できることもあるだろう。この作品は、より良い人間関係の在り方とは何かを問いかけているように思える。警戒心はほどほどにしたほうが幸せになれるのかもしれない。
以上。